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ミューンコーフの舌

 十二月二十四日、二十二時十七分――――。

 ミューンコーフが、冷えたコンクリートの上にうつ伏せになってから、これで二時間経過したことになります。長い黒髪のツインテールが強い風になびかないよう、胸の下にしまい込むように押さえつけて。不思議なことに、その黒髪にはところどころ色が抜けるように、ぼんやりと明けるように、ピンク色になっている部分がありました。

「…………」

 右目で覗いているのは、ライフルのスコープ。スナイパーである彼女は、あるビルの屋上から、あるマンションの廊下を監視しているのです。マンションまでの距離は、四百四十九メートル。手前のマンションに阻まれているせいで、見える廊下の幅は三十センチほどしかありません。

「…………」

 時折、ぺろり、ぺろり出している長い舌には、ワイングラスを逆さにしたような、或いはアルファベットのYを逆さにしたような形の火傷の跡。これは元々、ピンク色に発光する、生まれつきの魔力紋・・・・・・・・・でした。ミューンコーフが十四才の時なぞるようにそれを焼いたのは、身を隠した時に発見される確率を下げるため。二度と光を見せぬようにと魔力紋の上からこてで焼き、舌の中に押し込めたのです。

『どう、ミューンコーフ。寒くない?』
「大丈夫です、ヴィルゼラたい――、ヴィルゼラさん」

 小さな声で返したのは、左耳と襟に仕込んだ通信機への返事。

『大尉はだめだよミューンコーフ。私たちは軍隊癖を治さないといけないんだから。ビシッと仕事スイッチ入っちゃうのは君のいいところなんだけど……』
「がんばります」
『そうだねぇ……もう少し気楽にいこうか。私生活のほうでも無理してるでしょ、この国の今どきをやろうとして』
「でも、うまく立ち回れるようにしないといけません」
『うーん。まぁ、その話は後にしようか。ターゲットが乗っていると思われる車がね、そっちに向かったよ。狙えるのはその廊下だけ。やれるね、ミューンコーフ』
「はい」

 通信が終わると、ミューンコーフは長い舌をべろりと出し、下唇を濡らしながらゆっくりと左右に揺らします。

「…………」

 ピタリ。舌をやや左に傾けたまま固定すると、ミューンコーフはほんの僅かにライフルの角度を変え、静かに引き金へと指をかけました。スコープから覗く、約三十センチの隙間。そこにはまだ、誰の姿もありません。

「…………」

 予測するのは標的の歩幅、歩くペース、頭部の位置……それらの想像は全て想像であると割り切りながらも、淡々と可能性を脳内に構築していきます。そして、隙間に本物の人影が入り込んだ瞬間――――彼女は引き金を引いたのです。

 銃声は鳴らず。

 弾も発射されず。

 つまりは人が倒れることはなく。

 しばらくして聞こえたのは、ミューンコーフのいる屋上に繋がる階段をのぼる靴音。ミューンコーフは静かに立ち上がり、腰から拳銃を抜くと舌をぺろりと出し、上がってくる者を待ちます。

 ガチン。

 足音の主の頭が見えたタイミングで引き金を引くも、また不発。それもそのはず、彼女の銃には弾が入っていないのです。

「お疲れ様、ミューンコーフ。今のはちょっといまいちかな、待ち構えるくらいなら一度身を隠したほうがいい」
「でも、ライフルを隠す暇がありません。たしか、この国では、ライフルを見られてはいけないはずでは……」
「すぐ撃つのもよくないよ、この国ではね」
「はい、すみません。風の中のヴィルゼラさんの味が、攻撃的な気がして……それで、今回のヴィルゼラさんはの役をしているのかと……」

 階段を上がってきたのは、黄から緑へとグラデーションがかかった髪と瞳を持つ女性でした。彼女の名はヴィルゼラ。ミューンコーフの上司・・にあたる人物です。

「んー。悪くないけど、もう少し慎重にいこう」
「はい」
「ジャングルとは景色も風も違うからやりづらいと思うけどさ。実際、どう?」
「少し、落ち着きません。光が多いですし、身を隠すところも平らで、それに……」

 と目を移したのは、自身の手の中の拳銃。

「まぁ、心配しなくていいよ、この国では撃つことも、撃たれることもそうそうないから。さて、すぐ近くのホテルに部屋をとってある。身体を暖めてから、食事にでも行こう」

 ミューンコーフもヴィルゼラも、ごく普通の服装。街中を歩いていても違和感がない、カジュアルな服を着ています。ただ、どちらも光を反射する素材が一切使われておらず、露出の少ない暗い色でまとめられていたため、暗闇と一体化しているような雰囲気もありました。

「はい。すぐ片付けますので」

 慣れた手付きでライフルを分解し、パーツを近くに置いてあったリュックの中へ。構造上長さが必要なパーツも細かく分割できるのは、このライフルが、形状と重さだけ揃えたダミーであるため。拳銃も同じように、バラバラに分解されます。

「どうしたのさミューンコーフ」

 リュックを背負ったミューンコーフは、どこか浮かない様子。

「弱くなる気がします」
「どうして?」
「訓練もたった数時間で終わり、しかもその後に温かいシャワーをすぐ浴びることができる。正直、慣れません」
「かといって、明るくなるまでこんなところにいるわけにもいかないからね。日本でそんな姿を見られたら、世論が敵になる。魔導士協会からしたら大損失だよ」
「すみません」

 謝らなくていいよ、とヴィルゼラは軽く言います。

 ホテルに戻りシャワーを浴びた後、ミューンコーフとヴィルゼラは街へと繰り出します。ミューンコーフのツインテールは先程までと違って、付け根から先まですべて濃いピンク色。

「うん、やっぱりミューンコーフの髪はピンクがいいね」
「銃を持ってないと、上手に暗い色にできないです。修行不足です」

 屋上にいたときの黒い髪色は、彼女自身が魔力で変えていた色。このピンク色こそがミューンコーフ本来の髪色なのです。

「じゃあ、タクシー乗ろうか」

 目当てのラーメン屋までは少し距離があると、ヴィルゼラはタクシーを止めます。

「お姉さんたち、魔導士?」
「そうそう。もしかして、お兄さんはタクシードライバー?」
「あはは、わかっちゃったか」
「日本のタクシーは面白いですね。自動ドアだなんて」
「お、来たばかりかい? じゃあ言葉は噂の翻訳術式とかなんとかを使ってんのかな? すごいなぁ、普通に日本語を聞いてるみたいだよ」

 ヴィルゼラと運転手の話を聞きながら、ミューンコーフは窓の外を眺めます。友達同士数人で、上司と部下で、恋人同士で……様々な人たちがこの夜を楽しみながら歩いている景色を。

「しかし俺は思うんだけど、それだけ優れた魔法があるのに、通訳の仕事とかできないんだろ? それはちょっとおかしいと思うなぁ。いくら職を奪うからって言っても、魔導士さんたちだって生活があるわけだし、ねぇ」
「そうなんですよー。魔導士もなかなか就職難でね! 魔導関係は税金もたっかいし! でも今日はクリスマスイブだからそんなこと言いっこなしで……っと、おじさん! ちょうど零時だよ! ほら、時計見て! メリークリ……あれ? メリークリスマスって言うのはこのタイミングでいいのかな? 日本だと二十五日になった瞬間であってるよね?」
「俺にとっては今がメリークリスマスかな。こんな美女二人に乗ってもらって、車も喜んでるよ」
「そっか、じゃあメリークリスマスだねぇ」

 メリークリスマスと言わなかったのは、窓の外を見続けるミューンコーフだけ。寒い街の中を一人歩く若い女性をぼんやりと見ていた、ミューンコーフだけ。

「じゃあ、料金一千万円ね。ここからは俺のプライベートドライブ。行き先はヌードルラーメンでよかったよね。あそこうまいんだよなぁ。遅くまで開いてるし」
「あれ、まけてくれるの? ありがとうお兄さん」

 目的地につく前、ちょうど千円になったところでメーターを止めてくれた運転手にお礼を言うヴィルゼラ。その横顔を見たミューンコーフは、また外へと目を移します。繁華街から少し離れたせいか人通りはなく、それでも、街灯が照らし続けている道を。

「それじゃおじさん、よいお年を」
「年変わる前にまた乗ってくれてもいいんだけどね」
「あはは、縁があったらね」

 目的地に着き、タクシーから降りた二人は、ヌードルラーメンの駐車場手前で立ち止まります。

「ミューンコーフ、君は、この国があまり好きになれないのかな」

 ヴィルゼラが尋ねると、ミューンコーフは気まずそうな顔でうつむきます。

「ここに、小さなナイフがある」

 ヴィルゼラが取り出したのは、折りたたみ式でハサミやヤスリなども一緒に収納されている、小さな小さなナイフです。刃渡りはわずか数センチ。

「この国には銃刀法という、刃物に対する規制があるんだけど、まぁ、この長さのナイフならこうして持ち歩くのも違法ではないんだよね。そしてこの程度のナイフで十分な国でもある」
「安全……ですもんね――」

 一瞬の間に、左目の前数ミリのところに突きつけられた刃。突然のことに、ミューンコーフは声色も顔色も変える暇がありません。浅い茶色の瞳孔が小さくなるのも、少し遅れて……。

「今、君に突きつけているこのナイフで、誰かの目を突き刺したら、世間はこの小さなナイフを悪とみなす。それだけでなく、この事件とは無関係で、人を傷つけたことなど一度もなく、ただ便利なツールとして人の役にたっているナイフまでが公共の敵となる。それがこの国だよミューンコーフ」
「……えっと」

 パチンと閉じたナイフを、ヴィルゼラはミューンコーフに握らせます。

「でも、このナイフの何倍も何倍も長い包丁を使った刺殺事件がおきても、包丁は悪とはならないんだよ。包丁はナイフではないからね」
「それも、この国ですか?」
「ミューンコーフはどう思う?」
「難しい話です。私には」
「じゃあ、それも、この国としようか」
「はい」

 手の中のナイフは冷たく、でもなぜか心地よいとミューンコーフは感じます。

「君の瞳は綺麗だねミューンコーフ」
「ヴィルゼラさんの瞳のほうが綺麗です」

 向き合った、浅い茶色の瞳と、黄色から緑へのグラデーションの瞳。ヴィルゼラの瞳の発色や色の入り方は、まるで創作物のキャラクターのよう。大半の人が「普通の人の色ではない」と思うことでしょう。対するミューンコーフの瞳は、コーヒーの量を控えめにしたカフェオレのよう。ヴィルゼラほど目立つ色ではありませんが、珍しい色であることには代わりありません。

「高い魔力を持つ者は、体毛や瞳が人ならざる色に変質することがある。でもその色は人にありうる色であるケースもあるよね。たとえば、金色の髪を持って生まれた魔導士が、黒髪に変わったり」
「はい」

 ミューンコーフも似たような例を知っていました。茶色の髪が脱色もしていないのに、ある日突然ブロンドへと変化した魔導士を。それはまさに、魔法にかけられたような不思議な変化で。

「しかし、人の色と思われたそれを、目では認識できないレベルまで分析してみた結果、それは、人にはありえぬ構造により発色した黒であった。これは紛れもない事実、しかも例外はない」
「はい」
「つまりは、魔導士の色変わりは、どの色になろうとも人ならざる色にしかならないということ。そしてそれは、人ならざる色という言葉を、国と協会が正式な用語として定めるほどに一般的だ。知ってるね、ミューンコーフ」
「はい」

 それは多くの人が知る当たり前のこと。ミューンコーフはコクリとうなずきます。それと同時に思ったのは、自分の体毛がわかりやすく異質なピンク色であること。魔法で暗くすることはあっても、本来の毛色はピンク色であること。たとえそれが、十七歳の時に起きた変質の結果であるとしても。

「じゃあ、なぜ人の目では同じ色に見える色を、同じものとしたらいけないのかわかるかな、ミューンコーフ。一体なぜ我々は、目に見えないレベルの話まで気にしなければならないのか」
「わかりません」
 
 空からはちらりほらりと雪。二人の肩や頭に落ちても溶けないのは、そこがもう冷え切っているため。

「私にもわからない、というか正直に言うならば興味がないから知らないんだ。ただ、違うという事実はあり、私たちの世界はそれを違うものとして認識することがあたりまえとなっている。ナイフと包丁のようにね。でもね、どちらも刃物であることは変わりないんだよミューンコーフ」
「…………」
「さ、お店に入ろう。ああ、ナイフはしまっておいてね。いくら法的に問題なくても、手に持ったままお店に入るのはアウトだからさ」
「それも、この国ですか?」
「そういうこと」

 ミューンコーフはポケットにナイフをしまいこむと、ヴィルゼラの後についてヌードルラーメンへと入っていきました。店内は遅い時間であるにも関わらずそれなりに賑わっており、みな美味しそうにラーメンを食べています。室内はとても暖かく、外が真冬だなんて忘れてしまいそうです。

「私はいつもと同じのだけど、ミューンコーフはここはじめてだよね。っていうか、もしかしてラーメンデビュー?」
「はい、ラーメンはよくわかりません。食べたことないので」
「なら、私のオススメ食べてみる?」
「じゃあ、それでお願いします」

 ヴィルゼラは店員を呼ぶと、これとこれとこれをください……と、メニュー表を指差しラーメンを注文します。向かいに座るミューンコーフからはメニュー表は見えませんが、動きからして、注文したメニューは三つ。
 ミューンコーフがまたぼんやりと窓の外を眺めたのは、車のライトが窓に反射したため。あまりにぼんやりしてしまったせいで、店員が確認のためにメニューを読み上げる声も、どこか遠くのことのように聞こえ――――。そのまま、ぼんやり、ぼんやりしたまま、ラーメンが届くまでぼんやりし続けてしまったのです。

「ヌードルラーメンと冷製、それとフォークになります」
「どうもどうも。あ、冷製はこっちの子で」

 テーブルに並んだ、とてもよく似た二つのラーメン。パッと見の違いは一つ――――ヴィルゼラのものは湯気がたち温かく、ミューンコーフのものには氷が何個も浮いて器が結露していること。

「なんですかこれ」

 と、ミューンコーフ。とりあえず、ピンクのツインテールをパーカーの中にしまったのは、スープで濡れてしまわないようにするため。

「冷製ヌードルラーメン。まぁ、この店の定番メニューの冷たい版だよ。私のは普通の温かいやつだね。ああ、あと、このフォークはミューンコーフのね。箸はまだ、慣れないでしょ?」

 手渡したのはラーメンとともに届けられた、きれいに磨き上げられたフォーク。ヴィルゼラが注文した三つのうち一つは、これだったのです。

「ありがとうございます」
「さて、食べようミューンコーフ。ラーメンには寿命がある」

 ヴィルゼラはレンゲを使いスープを一口。ミューンコーフもそれを真似て、スープを飲みます。

「あつっ……」

 と言ったのは、氷が浮いたスープを飲んだミューンコーフです。

「味は?」
「えっと、すごく美味し――あっ」
「気づいた? この店はね、寒暖の逆転に対応してくれるんだよ」
「日本は、多いんですか? 私みたいな……」
「いや、食の温度に逆転が現れてる人は、そこまで多くないみたいだよ。ずずっ……どちらかいうと気温に対してが多いみたい。ずずっ……私の知り合いの医者も、雪の日だけは暑く感じるって言ってたし」

 ヴィルゼラは合間合間で麺をすすりながら話します。

「じゃあ、どうして。人が少ないなら売れないですよね。売れないとお店は困るのではないですか。カフェのバイトをする時に、そう習いましたが」
「君みたいな人にも、ヌードルラーメンの旨さを味わってほしい。そういう思いなんじゃないかな? それ、ただ冷やすだけじゃなくて、温かいやつに近い味わいになるよう調整しているみたいだからね。薄まらないように、氷もスープで作ってるんだって」
「そうなんですか」

 ミューンコーフは麺をくるくるとフォークでまとめて口の中へ。優しい味わいの中に感じた香ばしい醤油の香りは、火による加熱を感じさせます。

「つまり、私と君は今、同じ味を共有しているということだねミューンコーフ」
「そ、そうですね!」

 嬉しそうに笑ったミューンコーフ。彼女は今「日本に来てよかった」とはじめて、感じていたのです。

 

 

ミューンコーフの舌 おわり
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