第一部 アクアリウムの白
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【002】第一冊二章 魔導書いらse
一瞬?
それとももっと長い間?
少なくとも意識が途切れていたことは間違いない。そして、自分がなにかしらの魔法をかけられたことも。
「久しぶり――――」
目を開こうとした時、そんな声が聞こえた気がしました。
「まったく、なにが久しぶりだよババァめ。まぁ、私が術をかけられるなんて久しぶりではあるけど。はぁ、なんかちょっと頭痛いし…………魔力酔いしたか?」
見たことのない景色。ライライラの目前に広がるのは、手のひらよりも小さな卵型の葉をもった可愛らしい植物の草原でした。どこを見ても、その植物だけ。他の種類の植物は一切見当たりません。まるで、緑色の絨毯。見渡してみると、突き出した灰色のゴツゴツした岩もあり、どことなく高原のような景色です。
「まさか、山の上に転移させた……とかじゃねぇよな。あのババァが山登ってまで転移陣敷くわけねぇし」
さっきまで室内にいたのに、いきなり草原に。そんなトンデモナイ状態にも関わらず、ライライラは腰に手を当て「やれやれ」と、ため息を漏らすだけ。
「こんなもんすぐに脱出できちゃうぞ? まさかあのババァ、私が分析系得意なの忘れたんじゃねぇだろうな」
大地に向け右手をかざし、聞き取れないくらいの小さな声で、ライライラはぼしょぼしょと短くつぶやきます。
「あれ?」
おかしいなと首を傾げて、もう一度右手をかざしぼしょぼしょと唱えます。
「あれ? 声が大きすぎた? まさか、私がそんなミスするなんて。うーん、よし! もう一回!」
今度は真上にビシッと手を伸ばし指も大きく広げてから、大地に向けてかざします。さらに目を瞑って息を静かに吸い、集中力を高めながら、さっきよりも小さな声でぼしょぼしょとつぶやきましたが――――。
「え? え? まさか略唱禁止? ちょっとまって? ババァ本気出し過ぎじゃない?」
じわりと手のひらに浮いた汗を黒いエプロンで拭うと、今度は両手を大地にかざし、大きく深呼吸してから目を閉じます。そして、はっきりと、聞こえるように、丁寧に言葉を吐き出しました。
「朧気を暴くは静かなる雷 泥底 の恵みはナイルの…………」
少し唱えて黙り、眉間にシワを寄せて固まります。
「……………………ナイルの……ナイルの…………あれシングーだっけ? あれ? カプアス? うう……なんだったかなぁ。ああ、もう! これの全唱なんて覚えてないよぉ! いや、そういう問題じゃなくて、ほら、もう少しこう、この呪文を唱えたら手とお腹の中が、こう、じわーっとあったかくなるはずで……ってなに一人で喋ってんだ私は! ここには誰もいないでしょ!」
起きない、起きない、なにも起きない。呪文に合わせて発動するはずの魔法が、欠片も感じられません。いつもやっている略唱、つまり、簡略化された呪文を「他者に判別されない音で行なうべし」という条件を守りながら唱えてもだめ。じゃあ別の方式はどうだと、呪文を一から丁寧に唱えようとしても体内の魔力の動きを感じられない。こんなこと、今の今まで一度も経験したことがありません。
「じゃあこれは?」
手のひらを正面に向けて、親指の第一関節を曲げても……なにも感じません。
「じゃあこれは?」
空中に印を描いてから人差し指と中指をくっつけるように立てて………なにも起きません。
「嘘だ」
手を合わせてしばらくじっとしてから、全ての指を素早く交差させても……………………。
「やっぱり全唱じゃないとだめ? ああ、もうなんの魔法でもいいや! 今夏の終り 渇きに耐えし土中の繭 呼吸の魚は怪鳥を恐れる 今貴殿を目覚めさせん 呼び声の水を! ここに! 降らせん!」
これでもかと言わんばかりの力を込め、ライライラは両手を天に向け、大きな声で呪文を唱えました。でも「水を! ここに! 降らせん!」と、わざわざ三回も気合を入れたのにも関わらず、なにも起きませんでした。本来ならば、自分の頭上に小さな雨雲を作り出すことができるはずなのに。
「やっぱり魔法が使えねぇ……おいババァ! ババァ! 見てるんだろ! なにをした! おい! ババァ!」
キッと空をにらみつけ、大声で叫びます。
「くそっ、なんなんだよ……おい! ババァ! 聞いてんだろ!」
明るい、青くない空――――でも、直視できないほど眩しくはなく。全体が白く幅広く輝いており、太陽がどこにあるかわからないとても不思議な空を見上げながらライライラは叫び続けます。
「おーいババァ! ババァ、聞いてんのかー! おーいババッ」
突然、背中に妙な気配を感じました。ぬるい風に、そっと撫でられたかのような気配を。
「ん? な、なんだおまえ」
振り向くと、ライライラの体の三分の一はあろうかという大きさの、ガラスのように透き通った体を持つ生き物が、フイ、フイ、フイと体を揺らしながら宙に浮いていました。しかも一匹ではなく何匹もです。
「つ……使い魔か?」
透けた体の中に一本背骨のようなものがあり、頭のあたりが銀色に輝いている以外は、本当に本当に見事な透明。光の反射がなければ、空気に同化してしまいそうな気すらするその生き物を、ライライラは後退りしながら数えます。
「六、七、八匹か。っていうか、なんで魚が宙に浮いてやがるんだ。使い魔って普通、猫とかだろ……」
目を逸らさないように、一歩ずつ後ろへと下がってじっと見つめたその姿は、どう見ても魚の形をしています。観察してみると、尾の付け根に黒い点があり、お腹のあたりには空気の入った袋のような物が入っていることがわかりました。
「あの袋で浮いてやがるのか? いや、ありえねぇだろ……魚は水の中にしかいないし……ここ陸だし……魚が陸にいたらマッドだし……」
謎の魚を見ながらつぶやいたマッドという言葉。ライライラはそれが英語であることも知らず、「ヤバい」だとか「スゴい」だとか、そういう意味の言葉だと勝手に解釈して使っていました。でも、仕方ありません。それは、つい先日、SNSで見かけた「ドロドロマッド」という映画のCMで知ったばかりの言葉なのですから。ライライラの語学力では、それがMADとMUDの二つの意味を掛けた言葉遊びであることに気がつけなかったのです。
「いくらなんでも透明すぎるだろ、どう見ても普通の魚じゃねぇな。あれ? ってことは…………え? 本当に?」
なにかに気がついたライライラは、透明の魚たちにくるりと背中を向けて一目散に走り出します。でも、足元の植物の中に足がズボズボとハマってしまうので、速く走ることはできません。
「くそっ! まさか! ありえねぇ! ありえねぇ! でもっ、こんなのあれしかないじゃん! あれしかないじゃん!」
走りにくい、背の低い植物が密に生えた大地。ライライラは必死になって逃げながらも、何度か振り返り、透明な魚に向けて魔法を使おうとしました。
「くそっ! 使えねぇ! 使えないっ、使えないよぉ! 助けて! 助けて! きゃあ!」
植物に足を取られ続けたライライラは、とうとう転んでしまいました。幸い、みっちりと生えた植物のおかげで、痛くはありませんでしたが。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ちゃんと勉強しますから! ちゃんとしますから死霊魔術は――――」
「なにをそんなに大騒ぎしているのだね」
「ぐぬぎー!」
ライライラの大きな大きな叫び声。突然後ろから声をかけられて、驚きすぎてしまったのです。
【002】第一冊二章 魔導書いらse おわり
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