第一部 アクアリウムの白
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【001】第一冊一章 魔導書いらず
ある時、あるところに、優秀な魔導士がいました。
上に向かって細長く伸びた痩せ気味の十三階建てのマンションの六階にある、その魔導士の家には、魔導書がほとんどありません。黒い二段のカラーボックスに平積みにされたわずか数冊の本も埃を被っていて、最後に読んだのはいつのことやら。魔導書、絵本、料理本……どれも傷みが少ないのは開かれた回数がとても少ないから。
「ただいまー」
魔導書いらずと呼ばれたその天才は、白い紙にインクをボトンと落としたかのような、漆黒の光沢を宿した瞳を持つ、まだあどけなさの残る少女です。毛先が肩の少し下あたりにくる長さの髪を赤く染め上げ、それを全て後ろに流すように、つまり、ややオールバック気味におでこを出しているものですから、背丈体格などから感じる年頃より少しだけ上に見えそうな雰囲気がありました。その髪と瞳の色に合わせた、赤と黒で構成された長袖のエプロンドレスがよく似合っています。
「よしっ」
少女は、艶のない生成色のタイル張りの玄関で、つま先が丸くやや艶のある黒いワンベルトの靴を脱ぎ、踵を揃えて綺麗に並べます。
「おかえりなさいませ、ライライラ様」
「ただいまネクロゼリア」
少女の帰宅に少し遅れ、片手に漫画を持ちながら出迎えたのは背が高くちょっとガタイのよい、いえ、けっこう筋肉質なメイド、ネクロゼリア。広い肩幅のせいで、茶色いショートヘアの頭が小さく見えます。実際はそこまで小顔というわけでもないのですが。
「あ、これ、水槽に入れて」
「はあ」
漫画に目を向けたまま、気のない返事をしたネクロゼリア。そのページには見開きで、世界を救うために自らを犠牲にすることを決断したヒロインと、その決断になにも言えない主人公が向き合うシーンが描かれていました。彼女は名残惜しそうな顔で、そこに、大きな川の航空写真が使われた栞を挟んで閉じます。まるで、左右それぞれのページに配されたヒロインと主人公を分断するかのように――――それから、自分の主人である魔導士ライライラが持ち帰ってきた、赤いチェス駒がデザインされたエコバッグを受け取ります。
「やけに重いですね」
手渡した際のライライラの所作がとても丁寧で、まるで、中に割れ物でも入っているかのような扱い方だったので、ネクロゼリアも同様に、丁寧に、そして静かにエコバッグの口を開いて覗き込みました。
「ライライラ様、お魚買ってきちゃったんですか」
「うん。せっかく水槽あるんだし」
エコバッグの中に入っていたのは、赤いハンカチと、その下に隠されるように置かれていた、水と空気でパンパンに膨らみ輪ゴムでしっかり封をされた透明のビニール袋です。
「なにボーッと見てんだよネクロゼリア。見るのは水槽に入れた後でいいだろ」
取り出した袋越しにネクロゼリアの顔が歪んで見えたのは、曲面を描く水のせい。その中を泳ぐのは、オレンジ色に輝くラインの美しい小さな魚たち。
「これ、嘘みたいに綺麗な色が出ていますね」
「そりゃそうだろ。綺麗な魚を買ってきたんだから」
ネクロゼリアはそれ以上なにか言うわけでもなく、中にハンカチとレシートだけが残ったエコバッグをくるりと丸めて靴箱の上に放り投げると、短い廊下を姿勢よくスタスタと歩きリビングへと移動します。
ライライラは玄関に雑に放り出されていたネクロゼリアの大きなサンダルに足を入れ、ズペタンズペタンと引きずり混じりの音を鳴らして生成色のタイルの上を二歩進み、下駄箱の前に置かれた小さな踏み台に乗ります。それからエコバッグを取ると、馴れた手付きで畳んでからまたズペタンズペタンと戻り脱いだサンダルを揃え、ハンカチを洗濯機に、レシートをゴミ箱に入れてからリビングへと向かいました。
「おまえ、私が出かけてる間、ずっと漫画読んでたろ。家のことなんもやってねーじゃねぇか」
「読み終えたらやるつもりだったんです。それに、洗濯物をとりこんだのは私ですが?」
「それしかやってねーだろ」
天井が低く、圧迫感のある暗いリビング。そこは、別に物が多いわけでもないのにずいぶんと散らかっていました。まるで、家にある物の半分くらいをしまい忘れているかのように。メイドであるはずのネクロゼリアはそんなことを一切気にする風もなく、目の焦点を袋の中の魚に合わせ続けています。
「十……二十……三十……三十三……四十二…………」
発熱しているかのようにキンキラキラ。まるでニキシー管を体内に有するかのようなその姿を、ネクロゼリアはじっと見つめ小声で数えます。
「うわっ、臭っ……生乾きじゃねぇかこれ。今日みたいな天気のいい日に、どうしてこうなるんだよ」
袋の向こう側ではライライラがその小さな体を三人がけの、ちょっとしたベッドになりそうなくらいのズンとした奥行きのある真っ赤なソファに――――上にどっさりと乗せられた様々な色の洗濯物を近くで倒れていた洗濯かごに移してから――――トスンと預けます。
この部屋の家具は、赤か黒ばかり。フローリングを隠すように敷かれ、少し縁が重なってしまっている四枚のラグも、目が疲れそうな赤黒のストライプ。明るい空に向かって開かれているはずの窓も、同じデザインのカーテンで覆われ、その隙間から漏れる光と、天井照明の頼りないオレンジ色の光だけが空間を照らしています。そんな部屋に赤黒の服に身を包んだライライラがいると、まるで保護色。顔と手首から先、スカートから伸びる膝下から靴下の上までの間など、露出している肌だけが妙に目立ちます。
「はぁ、疲れた。今日わりと暑かったし、日陰通って歩いてくるの大変だったんだぞ」
「だからクーラーをつけておきました」
「いや、クーラーは出かける前からついてただろ」
それからライライラは、なにを言っているかわからないくらい小さな声でぼしょぼしょと呟きながら、指をパチンパチンと二回鳴らします。すると、ソファの前にあるローテーブルの上に置いてある、小さな肩掛けカバンのマグネットボタンが触れてもいないのにカチリ。その中からひとりでにふわりと飛び出したスマートフォンは、画面を下にしたままテーブルの上にコトリ。
「ん?」
スマートフォンのケースは、黒地で、古めかしい衣装に身を包んだ魚頭のキャラクターが暗灰色の線だけで描かれたもの。ローテーブルの天板も真っ黒で、ケースの輪郭と影の境が曖昧となり沈み込んでいくようでした。ライライラはそれをひょいと手に取ります。
「うわ、充電切れてる……出かけるときに充電しといてって言ったじゃん。そのために置いてったんだからさ。はぁ、魚の動画撮ろうと思ったのに」
ライライラはため息を付いて、また小さな声でなにかを唱え、今度は指を三回鳴らします。それに応えるように、床に落ちていた赤い充電ケーブルが蛇のように頭を持ち上げ、くねくねと動きだしました。
「うわっ、そっち行くなって! よっと、お、よし! はぁ、なんか今日うまくいかないな。影伸ばしの魔法使い過ぎたかな。いや、そんなに使ってないぞ? 人のいるところではやってねーし」
なんとかケーブルを捕まえたライライラは、それをスマートフォンにつなぎます。
「なあネクロゼリア、おまえ全然掃除しないんだから、充電くらいしといてくれよ……おい、聞いてんのかネクロゼリア。っていうか、なんでずっと袋のまま見てんだよ。早く水槽に入れてやれよ」
急かされたネクロゼリアは困り顔で、視線を袋の中の魚からライライラの頭へ、特に、ヘアマニキュアが抜けはじめ金髪に近づいている部分や、根本五ミリから一センチほどの手つかずの黒髪、つまり、染めた後に伸びた部分へと移します。
「ライライラ様は、水槽と魔導の関係をご存知ですか?」
「水と魔力は性質が似てるからなんとかって話だろ? だから部屋に水槽があると魔導士の癒しになる」
「ええ、そういう話もありますね」
「私は別にそういうので水槽を置いたわけじゃねーんだよ。そもそも魔導士とか関係なく水槽って綺麗だし癒やされるものなんじゃねぇの? っていうかさ、話そらしてないでさっさといれろよ。ゆっくり歩いて急いで帰ってきたんだから」
まず、ネクロゼリアは、窓のない壁際にある黒いスチール棚の上に置かれた水槽の、ガラス製のフタを丁寧にどけました。それから中の水を透明の計量カップですくって朱色のバケツに移し、水位を少し下げてから、ビニール袋を開封しないまま縦向きに浮かべます。袋が横向きにならないのは、水槽が小さめで水面がそこまで広くないから。
水槽の中は殺風景。底に赤っぽい砂が敷いてあるだけで、魚は一匹も泳いでいません。実はこの水槽、昨日買ってきて水を入れたばかり。ライライラは今日は魚ではなく、水草を買いに行ったはずなのですが……。
「なに遊んでんだよ。袋から出せよ」
「いえ、とりあえず水温を……」
「いいから袋を開けて、それを早く水槽に入れろよ」
「ライライラ様、これはそれではありません。グローライトテトラという名前があります」
「いや、だから言うとおりにしろって」
言うことをきかないネクロゼリアにライライラはイライラ。ソファに深く座ったまま腕を組み、アキレス腱あたりをポスポスとソファの座面の縁に当てながら不機嫌そうな顔をしています。
「少しだけ待っていただけませんか? この水槽に五十匹は多いですし……どうしたものかと…………」
「は? 小さい魚だからいっぱいいたほうが寂しくないだろ」
あまりの苛立ちにライライラは、小さな手をつきお尻を持ち上げてソファからぴょんと降り、テーブルを迂回して水槽に近づきながら話を続けます。
「いっぱいいるっていっても小さいし、そもそも、いつまでも袋の中に入れてたら可哀想――――」
「やれやれ、相変わらず人の話を聞かんやつじゃのう」
「はぁ?」
ボワン! 紫色の煙があがったかと思うと、目の前で突然、メイド姿のネクロゼリアが黒いローブを着た老婆に変わってしまいました。
「うわつっつ!」
突然のことに驚いたライライラはちょっと後ろに飛び跳ねて、水槽の近くにあった赤い三角形のダイニングテーブルの角におもいっきり肘をぶつけてしまったのです。
「ぐぬぎ……」
しかも、当たると一番ジンジンする場所を……。
「魔導書いらず、奇跡の術式庫、赤の女王少女、神の結論……あとなんじゃったっけな…………ああ、そうそう、学ばずの天才か」
「うう……」
ライライラは老婆に応える余裕もなく、肘を小刻みにさすり小声でブツブツつぶやきながら「痛みよどこかへ行け」と足踏みを小刻みにトトトトコトコ。その小さな手がふんわりと光ったのは、回復術式を発動したため。
「いてて……脅かすんじゃねぇよババァ! なにしに来やがった」
「いくら肘が対になってるとはいえ、その程度も回復できんのか! 光当てる前に、体内魔力を整えるようにせいと教えたじゃろうて! そもそもぶつけたくらいで流れを乱すなんて意識が低すぎ――」
「うるせぇよ! いてぇもんはいてぇんだよ! ああ、もう。バランス崩れてムズムズする」
腰の曲がった老婆の顔よりも低い位置にあるライライラの顔。視線を合わせるために上向きになった瞳には、少しだけ涙が浮かんでいました。
「たるんどるんじゃないか。ワシの擬態魔法も見抜けんかったし。ネクロゼリアとは微妙に言動が違ったじゃろう」
「わかんねーよ。あいついつも態度悪いし」
「まったく、これで天才を名乗るだなんて、聞いて呆れるのう」
「だっ、誰も名乗ってねぇよ! ま、周りが勝手にそう呼ぶだけだし……」
顔を赤くしながら、ライライラはそっぽを向きます。
「嘘をつけ。先週も嬉しそうに、天才って言われた~って投稿しとったくせに」
「勝手にフォローしてんじゃねぇよ!」
「無言フォロー大歓迎でやってるんだって、偉そうに言っとったのはおぬしじゃろ」
「あ、あれはフォロワー増えてほしいから……」
「ならよかったじゃないか。一人フォロワーが増えて。おぬしのために作った複垢じゃぞい。嫌ならブロックせい。ブロックはしない主義のライライラちゃん」
「ぐぬぎー!」
フォロー数「1」フォロワー数「0」となっているSNSアカウントを表示したスマホの画面を見せつける老婆の前で、ライライラは悔しそうに地団駄を踏みました。
「で、おぬしは天才と言われることに満足し、なまけてSNSばっかやっとると。そういうことじゃな」
「はぁ? なんでそうなるんだよ! 一日十回もつぶやいてないだろ!」
「擬態魔法も見抜けんかった癖になにを言う」
「わかるわけねーだろ」
「身長も、腕周りの太さも微妙に変えておったんじゃぞ。髪色だって少し明るかったじゃろう。魔導士ならその違和感に気がつかんかい」
「間違い探しかよ」
今の返しはなかなか上手かった……と、ライライラは思います。
「常に白紙のように純粋で謙虚であれと、何度も言ったじゃろうて。まっすぐ、囚われずに見つめれば、おのずと真実が見えてくる。そんな基本も忘れたか、馬鹿弟子め」
「白紙なのは自由帳だぞ? いいのかよそれで。あれ遊ぶ時のノートだろ。勉強するノートは白紙じゃなくて線が入ってるやつだからな」
今の返しはさらに上手かった……ライライラの顔にそんな表情が浮かびます。
「屁理屈を……今のおぬしはまるで、落書きされた魔導書のようじゃな」
「どういう意味だよ」
「自らの才能を無駄にしとるという意味じゃ」
「ん?」
ライライラは言われた意味がわからず、首をかしげてしまいました。
「上から落書きされたら、そこに書かれた大事な大事な術式が読めんじゃろうて。おぬしのせっかくの才能も、それと同じじゃ。あるだけで使い物にならん。のう、ここまで言わんとわからんか? ワシは魔導書いらず様にいちいち説明せなならんのか?」
「なっ! 私に魔法を教え続けることすらできなかったバカババァのくせに調子に乗るんじゃねぇよ」
「まぁ、いいわ。おい、靴を履け」
「は?」
老婆はローブの深いポケットから古新聞を取り出すと、ラグの上に敷きます。
「ほら、はよ履くんじゃ」
「いや、意味わかんねーし」
反抗的な態度をとりつつも、ライライラは玄関まで靴を取りに行き、新聞をカサカサと鳴らしながら靴を履きました。
「うむ、素直なのはいいことじゃ」
「いや、なにがしたいんだよ。ファッションチェックか?」
「なかなかいい靴じゃな」
「だろ? ツヤツヤしすぎてないところが今日の服に……ん? え? おい、ババァ! 私になにをした! おい! おい! なんだよそれ!」
体が動かない。その異常にライライラが気がついたと同時、白くモヤモヤとした煙のようななにかがふわりと目の前に浮かんだのです。
「なにって、魔法に決まっとるじゃろう。ワシは魔導士なんじゃから」
「だからっ、これはなんの魔法……」
「よく効くじゃろ。とっておきの古典秘術じゃからの。まぁ、本も読まんし人の話も聞かんおぬしじゃ、知らんのも無理はないが……」
「そういうことを聞いてんじゃねぇ……うわっ! おい、やめっ」
白いモヤはあっという間に膨らんで、大きな大きな魚の形となり、一口でライライラを飲み込んでしまいました。
「さて、これで思い出せるかどうかじゃのう」
ぽちゃん――――巨大な魚のシルエットは見る見る間に小さく、小指ほどの大きさとなり水槽の中へと飛び込んでいきました。ライライラの姿は、もう、どこにもありません。
【001】第一冊一章 魔導書いらず おわり
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