第一部 アクアリウムの白
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【006】第二冊三章 魔力炉とネオン_寅
怒り任せに振り向いた先には、ジャージを着て、黒いゴムのグリップがついた手袋をして、首からカメラをぶらさげた黒髪の女性が立っていました。背はそこまで高くなく、やや華奢に見える体つき。でもライライラから見ればずっと視線が上にある大人です。
「でもまぁ、挨拶くらいはしなさいね。はい、こんにちは」
「こ……こんにちはー」
ライライラはちょっと気まずそうに、語尾を伸ばした挨拶を返しました。
「なぁ、その格好、どこからつっこんだらいいんだよ」
「別につっこまなくていいわよ。ボケてないから」
顔立ちはキリリとしているのに、やる気を全く感じないファッションと、落ち着いた口調のせいで――――妙な違和感が――――ライライラはそれが気になってしまったのです。
「だって、こんな空間にいるってことはおまえも魔導士だろ。なのにその格好はねぇーよ」
「ええ魔導師よ。そんなことよりあなた、初対面だと虚勢張って強い口調になっちゃうタイプ?」
「ちげーよ!」
否定したけど…………もしかすると、言われたとおりかもしれない。ライライラは少し不安になりました。
「ちょっとからかいすぎたわ。ごめんね、私は魔導師のフォルナよ」
「私はライライラ。魔導士ライライラだ」
「あら、聞いたことあるわ。たしか、魔導書いらずですっけ」
「う、うん……私、そんなに有名なのか? 魔導学院の中だけだと……いや、でも一応SNS二つ合わせてフォロワー二百二十二……あ、ちがう! 一人増えたんだ。えっと、二百二十三人いるし…………」
「そんなあからさまに照れなくても」
「なんなんだよ!」
クスクスと笑うフォルナに、ライライラは背中を向けます。
「でも、魔導書いらずも所詮お子様なのね。これを魔力炉だと思うだなんて」
「どう見ても怪しいじゃねぇか。水の中でもないのに、変な泡出てるんだぞ! それに、なんかここに放り込まれてから魔法使えねぇから、検知できねぇから……確かめようもないから……言い切れはしないんだけど…………」
「認めてるのか否定してるのかどっちよ」
「なんなんだよおまえ!」
コンコンコンと、フォルナはライライラが魔力炉だと思いこんでいたものを叩きます。
「これはね、投げ込み式ろ過器よ。ほら、上の方にエアチューブがつながってるでしょ。あの向こうにエアポンプがあるはずなのよ、まぁ理屈上はね。逆流防止弁も挟んでるかもしれないわね」
「いや、そんなよくわかんねぇ言葉並べられても」
そう言い返したライライラを、フォルナは驚いた顔で見つめました。
「わからない? え、どこがかしら?」
「わかるわけねぇだろ。いきなりわけのわからないこと言いやがって、わかんねぇよ」
「そう。まぁ、これを魔力炉だと思っていたくらいだものね。ねぇ、魚を飼ったことはある?」
「飼おうとしたら、師匠に……うん。ここに放り込まれたんだよ」
ライライラの頭に師匠、つまりあの老婆の顔が浮かびます。そして、預けっぱなしになってしまった、袋に入った魚たちの姿も。
「水槽を立ち上げたの?」
「水槽が立つわけないだろ」
「えっと、水槽を準備したのはあなた?」
「それはネクロゼ……じゃなくて、メイドに頼んだ。私はなんか、ガーネットの砂を選んで、綺麗な魚を買ってきただけ」
「ふぅん。まぁ、そんなあなたにわかりやすく言うなら、ここは水槽の中よ。だからこれは、魔力炉じゃなくて魚を飼うための装置ってこと…………あら、あまり驚かないのね」
たしかに魚もいたし……と、ライライラは思ったのです。透明過ぎる魚ではありましたが。
「はぁ、水槽版サファリパークかよ」
「アクアリウムサファリってどうかしら? うーんサファリウム? それだとアクア要素がないわね。あ、そもそもあなた、アクアリウムはわかるのかしら?」
「うん、アクアリウムは知ってる。水槽だろ?」
フォルナは優しく「残念」と答えた後に、少し考えるような素振りを見せました。
「まぁ、ちょっとズレてるけど、ハズレと言い切るにはかわいそうな答えだから……それで正解でもいいわよ」
「どっちだよ!」
「じゃあ、ハズレで」
「ぐぬぎー!」
ライライラは今まで学んだ魔導の知識から、ここが水槽を媒介にした魔導空間であると推測することができました。そして、水を水と感じず空気のように感じているとも。
「あ、あの壁はもしかして、水槽と水槽の境目ってことか? 通り抜けると別の水槽に行く」
「そう、複数の水槽が連なってるのよ。よくわかったわね」
「ってことは、二つの水槽の壁が一枚になっちゃったってことか。水槽が並んでたら、壁は二枚のはずだろ?」
「あら、すごいじゃない。かしこいわ」
「私は優秀なんだぞ」
その時、頭上をなにかが通り過ぎたので、ライライラは空を見上げました。そこにいたのは、宙を泳ぐ魚。青色と赤色がとても綺麗な魚です。
「あー、あの私の腕ぐらいある魚は、本当は小さい魚ってことだな」
「本当に理解が早いわね。さすが、魔導書いらず」
「う、ありがと」
「そんなあからさまに照れなくても」
「なんなんだよもう!」
魚は一匹ではなく、群れをなしています。
「でも魔導書いらずって本当なの?」
「ん? そうだぞ。魔導書読んだこともあるけどだいたいすぐ理解できちゃうし、読んでないのに話を聞いただけで使えたり、教わってない魔法が使えたり――」
「一応読んだことはあるのね」
ライライラはなぜか自信アリげにうなずきます。
「ちょっとはな。でも私、本読むのあんまり得意じゃないんだよ。ほら、魔導書残ってる系の魔術の授業って妙に読ませたがるじゃん? 言語解読術の訓練になるとか言って、すぐプリント配ってくるし! はぁ、魔法の本なんだからさ、自分で説明してくれたらいいのにな。本がこんにちはーってさ」
「思念を込められた魔導書とかもあるけど、さすがにこんにちはーレベルの自律行動は無理よ。生き物じゃないんだから」
「まぁ、魚とは違うよな。いや、魚とも喋れねぇけど」
「上の空ね」
そんなやり取りをしながらも、ライライラはずっと空を見上げ続けていました。魚たちがあまりにも美しかったからです。
「いや、あの魚見たことあるなぁって…………ああ! そうだ、あれカードデステトラだ! 大きくなってるからわかんなかったよ! へぇ、大きくても綺麗じゃん」
「はずれ。あれはネオンテトラよ。それと多分、あなたの言ってるカードデスは、カードデスじゃなくてカージナル。あと、ネオンテトラが大きくなってるんじゃなくて、私達が小さくなってるのよ」
「なんだよもう、めんどくさいなぁ」
「ところであなた、なんで魚を飼おうと思ったの?」
「ん? それ聞きたい?」
その質問を聞いたライライラの顔が、急にパッと明るくなったのでフォルナはちょっと不思議そうな顔をしました。
「ハッシュタグでさ! #使い魔見せろ私も見せる、ってやつあるじゃん!」
「ああ、あのペット見せタグね」
「うん。それでさ、ラッパーのモケーレムベンベがアップしてたのを見たんだよ! カードデス……」
「カージナル」
「カージナルテトラを! それが小さくて綺麗で可愛くて! うわ、なにすんだよ」
「いや、なんとなく」
興奮気味にぴょんぴょんと跳ねるその頭を、フォルナが軽く左手で押さえつけたのです。
「つまりあなたは……カージナルテトラを買ってきたらここに放り込まれたってことかしら」
「いや、私が買ってきたのはオレンジのやつ。なんか気に入っちゃってさ」
「グローライトテトラ?」
「多分、そんなやつ…………」
確かお店でも、ネクロゼリア……に化けていた師匠からもグローライトテトラという名前を聞いた気がする。そう思いつつも自信のないライライラは、恥ずかしそうにうつむいてしまいました。
「あら、この髪、魔力の影響で変質したものじゃなくて、わざわざ染めてるのね。いい赤だと思うわ」
「ありが……」
お礼を言いかけて止まったのは、また「そんなあからさまに照れなくても」と言われる気がしたからです。
「服も可愛いじゃない。赤と黒で、ブラックルビーみたい」
「宝石みたいってことか! えへへ」
「魚よ」
「嘘だ、ルビーは宝石じゃん」
少し間をあけて、フォルナはライライラの視線が自分の服に向いていることに気がつきました。
「なに?」
「いや、もうちょっと魔導士らしい格好できないのかなって」
首が隠れるまでジップを上げた、暗い緑色のジャージ。内側に黒いゴムのグリップがついたやや明るめの緑の手袋。後ろで適当にまとめた黒髪。首から下げているカメラ以外の全てに、ライライラはダサさを感じていました。上から下まで何度も往復しても、カメラ以外に全くセンスを感じないのです。
「魔導士らしいって、どんな格好? あなたみたいにエセファンタジーっぽい格好をすればいいのかしら? 魔導着を着ないといけないような状況以外なら、なに着たって自由だと思うんだけど」
「いや、まぁ……自由ではあるけど、いくらなんでもそのジャージはなくない? 手袋とジャージが緑色っていうとこしかあってねぇじゃん……いや、色が違う! 両方緑だけど緑感がぜんぜん違う! 同系統の色だから余計に変だよ! 私の家でも朱色のバケツだけ浮いてるもん! なんか愛着でちゃったから気に入ってるけど!」
「この手袋、カメラが持ちやすいのよ。グリップがよく効いてね。それにこのジャージだと、いろんな姿勢が楽にとれるの。つまり写真が撮りやすいってこと。肌も顔以外出してないから、擦り傷も作りにくいわ」
「そういう意味じゃねぇーし! ほら、もっとなんかちゃんとしてさぁ! いや、愛着あるならまぁそれでいいんだけど、ほらせっかくちょっときつめの目つきしてるんだからさ、なんていうかこうビシッとした雰囲気のほうが似合いそうっていうか、髪の毛ももうちょっとギュって結んだほうがイカスっていうか」
ライライラは両手をバタバタさせ、フォルナの顔を見上げます。
「うーん。あなただって、できそこないロリータってかんじよ?」
「できそこないロリータ……それ、なんか、彩内リオの作った曲名みたいでかっこいいな! 知ってる? もともとボトロPとして活躍してた人なんだけど」
「タフな感性ね」
「あり……」
「褒めてないわよ」
そんな二人の頭上を、ネオンテトラの群れが気持ちよさそうに通り過ぎていきます。
「まったくおまえなんなんだよ。いきなり現れて褒めるふりばっかりしやがって」
「いや、別にふりもしてないのだけど」
「ぐ……な、なんか褒めてみろよ」
ライライラの強引な提案に、フォルナはじーっとライライラを観察します。どうにかして、褒めるポイントを探そうと。見つめられたライライラは、なぜ、褒めてみろよなんてことを言ってしまったのかと、タジタジとしながらその時間がすぎるのを待ちました。
「で、ないのかよ。ないなら終わりでいいんだけど……」
なかなか口を開かないフォルナ。そのむず痒い時間に、耐えることができなかったのです。
「いえ、見つけたわ」
「ほんとか!」
「あなた、両利きでしょう?」
「え、そこ? まぁそうだけど……なんでそんなことわかるんだ?」
「身振り手振りでなんとなくよ。どうも、左右のバランスがね。整っているわ」
「ま、まぁ私はどっちでも箸をもてるからな」
照れながらもライライラは少し、嬉しそうでした。
「あら、なら魔法も両利きかしら?」
「うん。どっちも変わんないよ。でもまぁ、ここじゃ使えないんだから関係ないか」
「へぇ、ちゃんと受け入れてるのね。スパッと割り切るなんて、優秀だわ」
「えへへ」
ライライラは心底、嬉しそうでした。でもすぐに、思い出したかのようにフォルナの顔を見上げます。
「なあ。どうやったらここから帰れるんだ? 写真撮りに来たってことは帰り方も知ってるんだろ?」
「え、あなたもしかして、自分の帰還条件を知らないの?」
「は?」
ポコポコポコポコ。言葉に詰まってしまったライライラの隣で、投げ込み式フィルターの煙突から出る泡の音が、ただ、ただ、鳴り続けていました。
【006】第二冊三章 魔力炉とネオン_寅 おわり
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