第一部 アクアリウムの白
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【015】第六冊一章 絶望の態度
一人走るニジカを、白兎が追いかけます。ライライラも走り出したのですが、つまづいて転びそうになり距離を離されてしまいました。
「大丈夫かしら?」
「あ。ありがと」
転ばなかったのはフォルナのおかげ。
「あ……」
再び追いかけようとしたのをやめたのは、白兎が歩いて戻ってきたからです。
「どうしたんだ白兎。ニジカを追いかけねぇと」
「行ったら、だめなのだよ」
「…………」
白兎はうつむいたまま、言いました。あまりにも暗い声で話すので、ライライラは一瞬黙ってしまいます。
「…………で、でもさ……ニジカは……」
「あそこはグッピーの水槽だったのだよ。きっとニジカはそこで生まれた」
「なるほどな、それで再会を邪魔しないようにしたんだな。そういうことだよな? なぁ?」
不穏な空気。ライライラにも自分の推測が外れているであろうことは、よくわかっていました。なぜなら白兎がボロボロと涙をこぼしているからです。握った拳と肩をブルブルと震わせ、もう、どうしようもないといった風に。
「ライライラ! 待つのだよ!」
次の瞬間、ライライラは走り出していました。自分が走ろうと思うよりも早く、足が走り出していたのです。
「ニジカ!」
何の抵抗も感じない透明な壁を突き抜け、向こう側へ。勢いよく入ったせいで、足元で石がこすれて鳴きます。
「な……なんか静かだな……」
なにも存在していないかのような静寂――――その理由はすぐにわかりました。
「これ……全部グッピーなのか」
静かに横たわる動かなくなった魚たち。その体は、まともな状態ではありません。本来あるべき華やかさの失われた景色は現実味がなく、ライライラの心臓が割れてしまいそうなほど強い鼓動を刻み始めます。
「に……ニジカ」
ライライラに背を向ける形でしゃがんでいるニジカは、返事をしません。
「なあ、ニジカ……」
なにか言ってあげたい。楽になる言葉を伝えたい。そう思うのに、言葉が出ません。
「ニジカ」
「ライライラさん。こういう時、人はどうしますか」
振り向いたニジカは涙を流しているわけでもなく、鼻水をすすっているわけでもなく。ただ淡々と、そう聞いたのです。
「……お墓を、作る」
こういう時、人は泣く。そう言いたかったライライラが選んだ言葉は「お墓を作る」という提案でした。泣くと言ったら、自分も泣いてしまいそうだったからです。ニジカが泣いていないのに泣いてはいけないと、そう思ったからです。
「どうやって作りますかそれ」
「穴を掘って、埋めるんだ」
「それなら私にもできそうです。ありがとうございました」
ニジカは地面を見つめ、手を使い穴を掘ろうと一つ、一つ、一つ、一つと石をどけはじめました。でもすぐに、それでは穴が掘れないことに気がつき、ガスン、ガスンと手を地面に突き刺すように…………石だらけの、石だけでできた大地で。
「だめだよニジカ、怪我を……」
「邪魔しないでください、ライライラさん。私が、そうしたいので」
もう一度振り向いたニジカの瞳は、とても暗く、重く、深い色をしていました。
「だ……だめだよ」
「ならお墓作りませんか? 作らないほうがいいですか?」
「そういう……ことじゃなくて」
「わかりました。ライライラさん」
ニジカは立ち上がり、ライライラと向き合います。
「では、どうしたらいいですか? ねぇ、ライライラさん。どうしたらいいですか?」
「ニジカ」
ぽろり、ぽろり。ニジカの瞳から大粒の涙が落ち、その顔を隠すようにライライラが抱き寄せます。
「どうしたら、どうしたらいいですかライライラさん」
「どうしたらいいんだろうね、どうしたらいいんだろうねニジカ」
ライライラの目からも涙がこぼれはじめます。一度流れ出したそれはとどまることなく、どんどんと頬を濡らしていきました。
「白い病をなくすんだ!」
響いたのは、白兎の声でした。
「これは、残酷な事実かもしれない。でも僕はあえて言うのだよ。ここで起きた白い病はおかしい。あきらかに、あきらかにこんな風にはならないはずなのだよ!」
白兎は、怒っているのか悲しんでいるのかわからないような声でした。
「ええ。明らかに、なにかおかしいわね。違和感、そう言うしかないけれど。これはなにか、そうね、魔導士が絡んでいるとか、そういう可能性があるわ」
フォルナがそう言ったタイミングで、ドッ……と、唐突にニジカがライライラを突き放しました。
「え、ニジカ……どうしたの?」
「ライライラは魔導士です」
「ちがう、私じゃないよ? 私こんなことしないよ?」
「わかってます。だからです」
「意味がわからないよ」
ニジカはもう涙を流していませんでした。
「ライライラはすごい魔導士なんですよね」
「…………」
「だから、やっつけてくれませんか、その魔導士を」
ライライラは涙を強く拭うと、ニジカの手を握ります。
「うん! まかせろ! 絶対やっつけてやるよ! 絶対に!」
「ありがとうございます、ライライラさん」
真剣な瞳、強い言葉。ニジカはそれを聞くと、本当に嬉しそうに、優しく、そして寂しそうに笑ったのです。
「僕も行くのだよ!」
「うん!」
「私も、手伝うわよ」
「うん!」
「さあ、行こうニジカ……ニジカ?」
ニジカはしゃがんで、また石をどけはじめていました。
「やっぱり私、お墓作りたいです。でも、ライライラさんは行ってください。魔導士をやっつけてください」
「…………」
「そうね、わかったわ」
言葉に詰まるライライラに変わり、フォルナが答えます。
「これはとっておきだから、隠しておきたかったのだけど。仕方ないわね」
フォルナは両足を肩幅に開き、両手を左右に伸ばし手のひらを外側に向けました。そして、キィイイイイイイイイと耳障りな音が彼女を中心に鳴り響きます。
「なっ……なんだ?」
「みっ、耳が痛いのだよ」
音はしばらく鳴り続け、やがて止まります。
「なにしたんだ、フォルナ」
「ひとつおぼえよ。この空間の全ての壁に対し左側を接点に七度の角度をつけて同じ大きさの壁を設置したの。そうすると内側からしか抜けられなくなるのよ。たとえ、人でも。これで誰にも邪魔されないわ」
「ありがとうございます。フォルナさん」
ニジカは石をどける手を止めて立ち上がり、丁寧におじぎをします。
「さ、行くわよ二人とも。いい? ニジカ。あなたはひとつおぼえのないヒトガタ。無理はしないことね。ここを出たら危険、そう思っておきなさい」
「わかりました。私は、長い間ここにいていいですか」
「ええ、いいわよ。誰かが迎えに来るまでいたらいいわ。探すのも大変でしょうから、私達が戻ってくる。そのほうが合理的でしょう? 壁の外から呼ぶから、出てきてね」
「はい。ありがとうございます」
それからニジカとライライラは抱き合って、お互いの顔を見てにっこりと笑ってから別れました。その後姿をニジカはずっと眺め続け、ライライラと白兎は何度も何度も、ふりかえります。
【015】第六冊一章 絶望の態度 おわり
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