アクアリウムライライラ

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【036】栞の二 ある日、魚言葉

 ある日。

「魚に出会う確率は高い。水草もよく見る。流木も、石も、今足元にある大磯だって。でもそのわりに見ないのよね」
「そうそう、箱庭では異様に器具を見かける確率が低いんだよなぁ。今目の前にあるこのヒーターだって、どれだけ探したことか」

 フォルナは、そう背の高くない肩幅の広い男と話していました。目の前にあるのは、水槽と水槽を隔てる透明の壁に取り付けられた白い棒のようなもの。それは、黒い吸盤で壁に固定されていました。棒の太さは男の太もも程であり、長さはその身長と同じくらい。棒は発熱しているようで、その上の空気がゆらゆら揺らめいて見えます。

「最近だと、投げ込み式をひとつ見かけたくらいね。普通に考えたらもっと見かけてもよいのだけど」
「しかも壁のように急には現れないときた。壁よりもパターンが多いから、上手く溶け込ませることができないんだろうなぁ。滞在時間が伸びないと、器具は出てこないという説も概ね正解だろうし」
「ええ。そう考えるとあの投げ込み式は不自然だったわね」
「それ、どうせ聞いても詳しく教えてくれないやつだろ? なんとなくわかるけどなぁ」
「あいかわらず、頭がいいわね」
「あいかわらずじゃなくて、ずっといいんだよ。俺はなぁ、ほんとの天才だからなぁ」

 男のノリは軽く、フォルナに対して親しさを感じさせる表情で話します。

「その見えない壁は存在しているかもしれないし、存在していないかもしれない……だったかしら。あなたの記録って妙に語り口調よね」
「ぜんぜん違うなぁ。見えない壁が存在しているとすれば、存在していないことを誰が証明するのか、だ」
「シュレディンガーの猫みたいな話ね。まぁ、実際どんな猫かはよく知らないのだけど」
「猫、赤の女王仮説、バタフライエフェクト、レメゲトン……スターを取り入れた理屈を少しややこしくこねると高く買ってもらえるんだよ。特に今の時代はなぁ。君だって魔導書をでっちあげるときにあやかるだろ?」
「私が作る本は本物よ。でっちあげには関わっただけ。間接的にね。それに同じ猫なら、私は水中にいるほうが好きなのよ」

 フォルナは悪びれることもなく即答し、男は「俺は最近チェシャ猫が好きだなぁ」と返します。

「詐欺師と研究者は紙一重。そういうものだよ。特に魔導なんていうジャンルはなぁ。それにしてもさっきのはシンプルだけどなかなかいいね。本物の本。本当の本、読みたどり着く根本と続けたくなるなぁ」
「茶化さないで」

 茶化さないでと言いつつ、迷惑そうではありません。

「悪い悪い。じゃあ、お詫びに一つ面白い話をしようか。古代都市は沈んだのではなく、洪水により水没したのだとしたら……というのはどう? なかなかいいと思うんだけどなぁ。もしかしたら、遠く離れた地に似たような魚がいる理由を証明できるかもしれない。ロックドラスとハラ・ジェルドニーみたいなね。俺はこれをノア仮説と呼んでいるのだけど……」
「方舟とハラを結びつけた人ははじめて見たわ。というか、沈んだも水没も同じじゃないの」
「わざと馬鹿のフリをする癖でもついたのか? 最初の沈んだは都市そのものが沈下。そして水没の方は、都市はそのままで、増水により沈んだという意味なんだよなぁ。ニュアンスでわかるはずなんだけどなぁ」
「急に方舟なんて大それた話されると思わなかったもの。イグドラシル級のビッグネームよ」

 呆れ顔をしつつ、フォルナは会話を続けます。

「まぁでも、あなたらしい発想だわ。私はそんなこと、考えたことないもの」
「いやいや。君だってそう思っていたかもしれないし、かもしれないかもしれない、誰か言ったかもしれないし、言ってないかもしれない」
「なによその言い回し。カラオケだったら噛んじゃいそう」
「俺はどちらかというと水底より水面に注目してるからなぁ」
「ほんと好きよね、そういう話」
「標高の高い巨大な水面はいくつも存在するんだよなぁ。たとえばヴィクトリア湖の水面は、湖面標高一一三四ひとひとさんよんメートルだ」

 男はきれいに整えた自身のあごひげを指先でつまみながら、嬉しそうに答えました。

「よく覚えてるわねそんなこと。あとセンヒャクサンジュウヨンでいいじゃないの、わざわざヒトヒトサンヨンなんて言い方されたら、理解しづらいわよ」
「君に合わせたつもりなんだけどなぁ」
「どういう意味よ」
「俺はシクリッドが好きだからなぁ。タンガニイカの標高もマラウイの標高も、全部覚えてる」

 あっちへ数歩、こっちへ数歩。男は落ち着きなく歩きながら、話を続けていきました。

「湖面標高を断言するのは気がひけるわ。なんだか上下しそうじゃない」
「あれらを鏡に見立てれば、巨大な魔導空間を反転させるのも可能かもしれない」
「さっきから微妙にスルーしてくるわね。でもまあ、あなたが大規模魔術の話で熱くなるのはいつものことだけど」
「協会が失敗し続けているからなぁ。複数の魔導士の指をドローンにつけて陣を描いたスカイテストプランですらあのありさまだよ。唯一の成功例はこの箱庭くらいだろ」

 右往左往する男の歩みが、ほんの少しだけ速くなり。

「水槽の継ぎ接ぎで作った箱庭を、大規模術式に含めるかどうかは意見の分かれるところよ」
「そうだね。一つ一つは小さいし接続時期もバラバラ。さしずめ、時間をかけてつくった擬似的な大規模魔術というかんじかなぁ。でもそんなこと、気づいているだろう君なら。これは限りなく大規模魔術に近い代物だ」
「私はそこまで頭よくないわよ。でもまぁ、協会はそういうアプローチ好きよね。不安の発生論のときもそうだったし」

 ピタリからのニタリ。男は足を止めてから、なんとも言えない笑みを見せました。

「不安の発生論。ある術式を、誰も気がつけないレベルまで薄めて仕込んでばらまいた。その影響を観測する。あれは儲かったなぁ。おかげで五メートル水槽を新設できたからね。透明度抜群の極厚アクリルの重合接着、さらに新水垂れ流し」
「まさか、あれ、あなたが書いたの? ひどい内容だったけど」
「書いたんじゃなくて、発案者だなぁ。あんなに薄めた術式が影響を与えるわけがない。でもそういうのにお金を出したがる偉いさんは多いからなぁ、すぐにキャッシュに変わったよ」
「こんなの魔導書じゃなくてただの自己啓発本だと叩かれて、話題になるところまで計算かしら?」
「計算というより、仕込みだなぁ。あんなものがイガヤクグランプリで八位なんてとれるわけないだろ?」

 そんな二人の真上を、目が青く輝く小さな魚が数匹通り過ぎていきました。体にも色はあるものの派手とは違い。だからこそ、その美しい青が際立って見えます。まるで、ぽんと一つだけ輝く、儚くもたしかな青いランプの灯りのように。

「イガヤク……ああ、魔導以外に役立つ魔導書グランプリね。胡散臭いと思ってたけど、まさかもっと胡散臭いあなたが絡んでいたとは思わなかったわ」
「稼がないといけないんだよ。魔導関係は税金も高いし、君みたいなバンディットになりたくもないからなぁ。俺はバンディットにはなりたくないっと」
「人を雑にディスらないでくれるかしら? あなたは趣味につぎ込みたいだけでしょう」
「ディスるなんて言葉、君も使うんだね」
「今どき誰でも使うでしょう、それくらい。ほんと茶化すのが好きなのね」

 近くに丁度いい大きさの岩を見つけ、フォルナはストンと座ります。

「茶化されついでに見ていくかい? 向こうに新しいアフシク水槽がある。ヴィクトリア湖産で揃えてあるからね、なかなかお目にかかれない景色だと思うなぁ」
「やっぱり趣味じゃないの」
「アフリカンシクリッドの多様性と、三つの湖。仮にこの箱庭の壁を取り除いた上で三つに分断したら、すごいことになるかもしれないよなぁ」
「私は賛成できないわ。そういうのは好きじゃない」

 男はまたニタリと笑いました。

「君のそういうとこ、好きだなぁ。まぁ君が壁を消せるようにならない限り起こり得ないことでもあるから、俺も安心して言えるんだけどね」
「ひとつおぼえは重複しないというのが、あなたの考えだものね」
「それに、この箱庭が面白いのは事実だ。パラレルワールドの立証ができるかもしれないからなぁ」
「どうせなら、あなたの持っている箱庭の情報を全部売って欲しいものだわ。仮説、真説をきっちりセパレートして。まぁほとんど仮説でしょうけど」
「君が箱庭でなにを企んでいるのか教えてくれるのなら。いつだってそのめんどくさい作業をやるよ」

 フォルナはスッと立ち上がり、男に別れを告げるわけでもなく歩きだします。そして男はその後についていきました。

「そうそう、私にかけられた容疑の数、かさ増ししといてくれない?」
「まったく、話の腰を折るね。それにそれこそめんどうなお願いだなぁ」
「数字はわかるわよね」
「俺を舐めないでほしいなぁ。で、報酬はなにをくれる。金はだめだぞ、君からの金は口座に入れづらい」
「珍しい魔導書を」
「いいねいいね。君がそう言うってことは本当に珍しいだろうし、それで手を打とう。そうだ、ついでにいいものをおまけにつけるよ。きっと喜ぶと思うなぁ」

 ピタとフォルナの足が一瞬止まりましたが、またすぐに歩きだします。

「どうせ追加料金とるんでしょう?」
魚言葉うおことば辞典。どうかなぁ? まぁ、まだまとめている最中なのだけれど。そう遠くない未来に書店に並ぶはずだよ」
「なによそれ」
「花言葉みたいなものだよ。魚それぞれにあったらいいと思うんだけどなぁ」
「素敵ね。また会うことができたら、私にもいくつか考えさせてほしいわ」
「また会うことができたら……なぁ。どうやら今回は、相当可能性が高いようだね。まぁ再会できなかったら魔導書は諦めるよ、いつもと同じ契約だ」
「ありがとう。今回も、心から感謝するわ」

 それ以上の会話はなく。また、挨拶も別れの身振り手振りもなく、二人は別々の方へと足を向けます。フォルナは、薄茶色の細かな砂と石礫の敷き分けで作られた道を、男は黒い土に植えられた葉の大きな植物をかき分けその奥へと。

 

 

 

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